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<【マニュエル・ケソン】について> マニュエル・ルイス・ケソン (Manuel Luis Quezon y Molina, 1878年8月19日 - 1944年8月1日)は フィリピンのコモンウェルス(独立準備政府)初代大統領。 1878年8月19日にタヤバス州(現在のケソン州)バレル町で生まれ、 サンファン・デ・レトラン大学文学部に入学し16歳で卒業。 1899年、米国からの独立運動に参加するためサント・トーマス大学法学部を中退して アギナルドの革命軍に参加する。 1903年に卒業、司法試験に合格して弁護士活動を一年間行った。 1905年、タヤバス州知事選に当選し知事を二年間務めた。 1907年の第一回総選挙に即時独立を求める国民党から出馬し 国民議会(一院制)議員に当選、与党院内総務を務めた。 1909年、駐米委員に任命された。 1916年、安定した政府の樹立を条件に将来の独立を盛り込んだ 米国のジョーンズ法(フィリピン自治法)の成立に尽力、 その功績を背景に二院制議会の上院議長に就任した。 1935年、新憲法が国民投票で批准され、総選挙でコモンウェルスの大統領に選出された。 1937年にタガログ語を国語と定めたことから「フィリピン語の父」といわれる。 大統領再選の翌1942年に日本が侵攻してフィリピンを占領した後、 米国に渡り亡命政府を樹立した。 フィリピン完全独立を見届けることなく志半ばの1944年8月1日にニューヨークで持病の 肺結核により逝去。現在のケソン市は彼の名に由来する。 1918年オーロラ・アラゴンと香港で結婚した。ケソンとオーロラ・アラゴンは いとこ同士である。4人の子供を残した。 |
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